片葉の芦
中島郡今伊勢村宮山(一宮市)の酒見神社の西に,昔神戸氏という豪家があった。主人が京から若い僧を伴い帰って,近くの某寺のお弟子にした。ところがこの若い僧が神戸氏の家に出入する中に,神戸家の姫君が懸想した。
或る日,「今夜池の端の柳の陰で待っているが,万一お出でがないと身投げをする」との意味を紙片に認めて若僧に渡したが,その夜になっても若僧は戒律を守って行かなかった。そこで姫君は遂に池に身を投げて死んだ。若僧は翌日神戸家に出て夫れとなく挨拶をし小さい白木の位牌を懐にして京へ向って出立した。この僧は後に高僧になられたという。
今は神戸氏も大寺もないが酒見神社の裏手の池には,今も尚水藻の中に長い髪の毛が浮いているのをよく見るという。又その辺一帯の芦は片葉になっているという。これは姫の片思いの執念が残っているからだという。(『愛知県伝説集』 p.29)
■解説
芦の葉が枝の片方にしか生えないのは,地勢や水流などの自然環境によるものであろう。その由来を説く伝説は全国的に分布するが,内容はそれぞれ異なる。この伝説では,若僧に片思いをした姫の執念に由来すると伝えている。
大槙
東春日井郡品野町大字下品野(現瀬戸市)から瀬戸市に至る旧道の傍に大槙という所がある。昔此処に槙の大木があった。何でも行基菩薩がこの地に滞錫されていたことがあったが,後他に赴こうとせられた時,大変名残りを惜まれて,持っていた槙の枝を突きさして行かれたが,不思議にも其の枝は逆様のまま根づいて,遂に大木となったと言い伝えている。(『愛知県伝説集』 p.208)
■解説
行基は奈良時代,社会事業に尽力した法相宗の僧である。逆さに挿した植物が根づいて成長したという伝説は全国的に分布しており,事例としては逆さ杉が最も多く,そのほか逆さ竹,逆さ藤,逆さ桜,逆さ銀杏などがあるが,何れもこの伝説のように歴史上の高僧または貴人,武士と結び付けて説かれている。
天然痘除けの楠
知多郡成岩町(現半田市)成石神社の西南隅に四抱えもある中空の大楠がある。大昔落雷があって其の時牛頭天王が出現され,これへ参詣すれば天然痘にかからぬと仰せられたという。現今でも酒と赤飯とを供えて参詣する人が多い。(『愛知県伝説集』 p.217)
■解説
天然痘は疱瘡ともいう。古来,最も恐れられた疫病であり,その根本原因は疱瘡神の怒りや祟りと考えられてきた。右の伝説は,牛頭天王を疱瘡神として祀る習俗の由来を説くもので,各地の習俗に見られるように,赤飯を供えるのは赤色呪力よって悪霊を追い払うという心意であろう。
かやの木弘法
城東村塔野地北裏(現犬山市)にかやの木弘法というのがある。堂の裏に一本の古木のかやの木がある。昔弘法大師が巡錫の砌,ここにお立ち寄りになった折,手の数珠が切れた。それを大師が拾い集められたが,ただ一粒残っていた。それから芽が出てかやの木が生えたと言い伝えられている。不思議なことにはその実の真ん中には皆穴があいているという。(『愛知縣伝説集』P.211)
■解説
数珠の一粒から芽が出て木になったというのは,大地に挿した杖が成長して大木になったという杖立伝説に類するものである。このような伝説は高僧,貴人にまつわる話として全国的に分布するが,中でも右の伝説のように弘法大師の威徳を示すものが多い。一説によれば,弘法大師が全国を行脚していたころ,唐の国から持ち帰った三粒のかやの実をこの地に蒔き,そのうちの一つが生長して弘法堂のかやの木になったという。このかやの木は今も毎年実を付けるが,不思議なことに実の表と裏に針の点ほどの窪みがある。なお,塔野地は元は岩田村といっていたが,弘法大師が「唐の地」に似ているといったので,塔野地と呼ぶようになったともいわれている。
捻り木の柳
源義朝公,関東へ落延びようとして美濃路より養老川を下り木曽川に入り(昔は両川相続いていた),今の海部郡立田村(現愛西市)に着かれた。空腹を訴えられたので,上立田村藤左衛門と下立田村の三右衛門の両人が御粥を差上げた。義朝公はお礼として藤左衛門には御粥姓を三右衛門には小粥姓を賜うた(現に小粥姓を名乗る者がある)。又飯を献じた者は飯谷姓を賜ったという。
義朝公は食事終わってお用いの箸を捻じて地上に挿し「吾れ若し再び望み叶わば此の箸芽をふかん」と仰せられたが,不思議や芽を出して捻り木の柳となったという。(『愛知県伝説集』 p.214)
■解説
この話は箸立伝説の一つで,「かやの木弘法」と同じように杖立伝説に類するものである。箸立伝説は全国的に分布し,箸の材料としては杉の事例が多いが,右の話では柳となっており,そのほか松,榎,葦などの例もある。